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三木城戦史に名を残す気丈な女武者

三木城戦史に名を残す気丈な女武者

豊臣秀吉がその生涯で最も苦戦したといわれる22カ月の三木城戦史に勇気と涙をもって語られる二人の女性がいます。
ひとりは城主 別所長治の妻、名を照子といい丹波八上城主 波多野秀治の妹(娘で二女という説も)。
そしてもうひとりは長治の後見人だった叔父、別所吉親の妻(畠山上総(かずさ)守(のかみ)の娘)。
はじめに、別所吉親の妻について、吉親の妻は、男も目をみはるほどよく剣を使い、馬を走らせたといいます。
天正6年4月1日、日没と共に三木城包囲の準備をはじめた秀吉軍にひと泡ふかせようと別所方の軍勢はいくつかの支城から出て、相手方の大村坂の陣に夜襲をかけました。火の手を合図に三木からも1,000余の軍勢が松明(たいまつ)、提灯をかざし川向こうの敵陣に突入しました。この時、吉親の妻はモミの鉢巻に桜縅(さくらおどし)の鎧(よろい)に白(しろ)芦(あし)毛(げ)の馬に打ち乗って二尺七寸余(84〜85cm)の太刀をかざして敵陣に切り込み、逃げる敵を馬の蹄(ひづめ)にかけて切りまわしたといいます。
この彼女がすさまじい働きを見せるのは三木城落城を前にした城内での合戦の時です。
天正8年1月6日、三木城の宮の上要塞を乗っ取った秀吉側は鷹の尾城を落し、城郭続きの新城に殺到しました。新城は別所吉親の居館であり、この時吉親の妻は「見逃すのが道ならん、必ず構うことなかれ」という。秀吉の軍勢はこれを聞いて進みかね刃向かう者はなかったといいます。
白の大口直(おおぐちひた)垂(たれ)に赤糸縅(おどし)の鎧(よろい)、紫の鉢巻をして黄金づくりの細太刀に首掻(くびか)き刀を差し添えて現われました。
「われは女の身であれど 三木城もすでに落城近からん 一族残らず死ぬる覚悟なれば 最期のいとまごい 矢ひとつ参らすべし」と大声で叫ぶと矢倉にかけのぼり、攻めあげてくる敵に次々に矢を射かけたその腕は正確で20人余りがたちまちに眼下に射落とされました。
弓を捨てた吉親の妻は、今度は愛馬にまたがると新城の門際まで迫った敵兵に斬り込んで孤軍奮闘めざましい活躍をします。

CIMG0130.jpg


「別所氏と三木合戦」から

秀吉軍のうちから篠原源八郎という剛の者が太刀を真っ向に振りかざし馬上より打ってかかりました。吉親の妻は少しも慌てず源八郎の左の腕を斬り落としました。続いて堀久太郎の供武者がこれに組まんと駆け寄ったが、胸板を斬られて息絶えました。またもや六尺余(約180cm)大男が吉親の妻を馬より引きずり下ろさんと走り寄るのを引っつかみ、水も溜まらぬ早業で首掻き切って打ち捨てた。女武者は紅の扇を打ち開き「女と思いあなどるな、畠山総州が娘なるぞ、我と思わん者あれば いざや組まん」とさし控える。これを眺めた寄せ手の者は、われこそ組まんと進み出ると秀吉は「鬼神にも似たる女なり、しかし女ひとりを争いて打ち取らんとは大人気なし」と、これを押しとどめました。
次に落城前の幼子を次々に刺して自刃した妻たちです。
長治の妻は髪を洗い香を焚(た)き、白の小袖に練りの単(ひとえ)の絹衣、四人の子どもたちにも白い小袖を着せて、先祖伝来家宝の具足などが並ぶ前に長治と共に正座しました。
吉親の妻はもしも城内に敵が乱入することがあっては神聖な死に場所が汚されると思い、武具を着け、矢をつがえて中門口を見張りました。そして自害と決めた刻限になり部屋に戻って死出の装束となりました。
彼女は「ご内室様ら若き皆様の手本となりましょう。お先に参って三途の川でお待ちします」というと左右に座らせていた幼い男子二人、女子一人の我が子を引き寄せ、守り刀で次々に刺し、返す刀を取り直して「南無・・・」という声も消えぬうちに心臓を一突き、うつ伏せになって絶命しました。
辞世は
「のちの世の道も迷はじ思ひ子を つれて出でぬる 行く末の空」
28歳でした。
吉親の妻と子の死、血の匂いが漂う部屋に念仏の声が広がります。
長治の弟 友之の妻は、山名和泉守豊恒の娘で17歳、その容姿は春の花の匂い深く秋月の光に照らされて、形よきほどの美女であったとされています。だが、身重の体だった彼女は手が震え、懐剣を投げ出して、泣き崩れてしまいます。
この様子に長治の妻、照子は「武将の妻として恥ずかしくはござらぬか、共に三途の川を渡ろうではないか、余りの嘆きは末代までの恥となりまする」と厳しく、だが優しく戒めました。
照子の言葉に心を落ち着けた友之の妻は、
「頼むぞよ、同じ蓮の花の上を消える露の玉の在かと」
の歌を残して守り刀を口にくわえて見事な自害を果たしました。
この様を見ていた照子は「皆様、見事なご自害、武将の妻として誠にふさわしい死に様でございまする」と誉めた後、長治や重臣たちに深く頭を垂れました。
照子はまず膝に乗せたわずか2歳の竹松丸を抱きしめるようにして小さな胸に懐刀を突き立てた後、3歳の男児千松丸、長女で5歳の竹姫、二女で4歳の虎姫といとしい我が子たちを誰の手も借りることなく次々に刺し殺しました。
そして最後の刀を22歳の胸に当てて、夫より一歩先に黄泉路(よみじ)の人となりました。
「もろともに消えはつるこそ嬉しけれ おくれ先立つならひなる世を」
長治は我が子の死、妻の死を見届けるとその祭司たち10人の死骸を大庭に下ろさせ、蔀(しとみ)、遣戸(やりど)を打ち砕いて積み、火を放たせました。
愛する者を焼く煙は三木城の天へと昇っていく。そして長治は静かに23歳の命を絶ったのです。

CIMG0131.jpg

三木城

三木城

〔形式〕梯郭式平山城
〔構造〕本丸跡、空堀跡
三木城跡

兵庫県の中南部、神戸市の北方の地に位置する三木城は、山陽道の入り口を守る要衝にありました。三木城の築城年代ははっきりしませんが、別所氏中興の祖といわれる則治が明応元年(1492)にこの城を修築して釜山城と名付けました。別所氏は播州の名門赤松氏の一族です。
本丸を望む

本丸より眺める

信長の命により秀吉が毛利攻略のため播州へ入るのが天正5年(1577)です。
長治ははじめ信長に味方しましたが、長治の名代として出迎えた別所吉親らに加古川での秀吉の態度があまりに横柄だったために別所一族は信長に背き、毛利に味方しました。
東播八郡と摂津の一部などを支配した。別所氏は離反をかくして信長に味方するとみせかけて油断させ、三木城の普請を急ぎました。
三木城は高さ50mほどの台地の上に築かれ、西に流れる美嚢川を外堀にした堅固な城です。この城に8000人ばかりが立てこもって生活ができる大城郭です。
しかも三木城の指令により東播130の城と砦が連携して秀吉軍に横や背後からも攻めかかった。このため秀吉軍は三木城を落とすのに22ヶ月をようしました。秀吉が生涯で135回戦ったといわれる中で、最も長く苦しい戦いになりました。
秀吉軍包囲

秀吉は三木城から1kmの平井山に本陣を築き、三木城の周辺を完全に遮断する「干し殺し」戦術にでました。この戦陣の中、秀吉の軍師竹中半兵衛は36歳で病没しています。(天正7年/1579 6月13日)
本陣登り口

平井山本陣跡

竹中 半兵衛の墓

竹中 半兵衛の墓

竹中 半兵衛の墓

城主 別所長治は本丸に迫った敵を前に、これ以上の戦いは無益と自分の命にかけて籠城の将兵やその家族を助けたいと降伏の書状を秀吉に送りました。
秀吉はこれを受け入れ、明日は城主一族自決という前日、食糧の欠乏した城内に酒と肴を届けさせました。その夜、長治は家族や家臣と秀吉から贈られた酒肴で別れの宴を開きます。
時に天正8年(1580)1月17日、三木城は開城したのです。
別所 長治

別所長治の辞世の歌
「今はただ うらみもあらじ 諸人の
いのちにかはる 我身とおもへば」
辞世の歌

本丸の北側には、直径3.6m深さ25mもある巨大な井戸があり、かんかん井戸と呼ばれています。
この井戸に小石を投げ込むとかんかんという音がするので、この名がついたといいます。
かんかん井戸

かんかん井戸

別所勢が長い籠城戦に耐えられたのも、この井戸によって飲料水を確保することができたからです。
三木城跡はほんの一部の遺構しか残っていません。明石城ができた元和3年(1617)に廃城になり石垣は運ばれて明石の船着き場など魚河岸建造に使われました。

番外編

番 外 編

★ 好きな武将は誰ですか?

朝日新聞に50歳以上と49歳以下のランキングがありましたので紹介致します。
(回答総数4,206件 50歳以上2,715件 49歳以下1,491件 複数回答あり)

【50歳以上】
1.真田幸村   665人  ・強い者に簡単になびかない
               ・最後かっこよく散ったのがにくい
2.織田信長   646人  ・戦国時代に大胆な改革を実践
               ・日本人には少ないニヒリスト
3.上杉謙信   532人  ・自己改革をした武将
               ・現代の経営者としても通用する感覚
4.源 義経   383人
5.伊達政宗   364人
6.上杉鷹山   353人
7.徳川家康   345人
8.直江兼続   319人
9.武田信玄   261人
10.豊臣秀吉   261人

【49歳以下】
1.織田信長   348人
2.伊達政宗   315人
3.真田幸村   286人
4.上杉謙信   256人
5.源 義経   195人
6.武田信玄   176人
7.直江兼続   162人
8.徳川家康   155人
9.豊臣秀吉   144人
10.上杉鷹山   103人

※ 選んだ理由は、TVドラマや小説がきっかけという回答が多数ありました。
50歳以上では、「人間味」「勇気」「信義」など
49歳以下では、「リーダーシップ」「統率力」「強烈な個性」など
が好まれるポイントのようです。
ランキングの中に「義」通した石田三成と明智光秀がなかったことが意外でした。

テーマ : 兵庫県
ジャンル : 地域情報

篠山城

篠山城  別名 桐ヶ城
[形 式] 平山城(笹山の小山を利用)
[築 城] 慶長14年(1609)
[縄 張] 藤堂高虎

 天正7年(1579)8月 押し寄せた明智光秀の大軍と激しい攻防戦を展開した末、ついに八上城は落城します。
その後、八上城主は明智光秀をはじめとしてめまぐるしく入れかわり、関ヶ原の合戦後は前田玄以の子 茂勝が5万石の禄高で徳川家康によって封じられます。
しかし、前田茂勝は慶長13年(1608)発狂したという理由で除封され、かわって家康の妾腹の子 松平康重が新城主として入城しましたがこれには理由が…。
家康は当時アンチ徳川の巣窟ともいうべき大坂、京都の動向を監視するため、彦根、小浜、宮津、福知山、姫路などの要地に腹心の大名を配していました。
ところが、交通の要衝である篠山の八上城主の前田茂勝は元来が豊臣系であり、これをどうにかしないと家康の大坂、京都包囲網の一郭にポッカリ穴があいたままになる。
 また、家康は八上城にも不満をいだいていました。
八上城は戦時においては難攻不落の堅城であろう。だが、その位置はあまりに盆地の東に偏りすぎ、交通の要衝をおさえたり、藩政を行なうには不向きである。かつ又、篠山藩は大坂、西国大名に対するおさえの役目があります。
その点守りばかりを重視した八上城は都合が悪い。
要約すれば、新しい時代にはそれにふさわしい城が必要です。家康は篠山に赴任する康重に新城の築造を密命したものとみられ、康重は入封するとすぐ築城の候補地を物色し、篠(笹)山、王地山、飛ノ山の三丘陵を選んで清洲城に滞在中の家康に報告すると「東に王地山があるのは武運長久の前兆である」として西の飛ノ山との中間にある笹山に築城することを即決しました。

天下普請
 家康は娘婿の姫路城主 池田輝政を普請総奉行に命じ築城の名手といわれる津城の城主 藤堂高虎に縄張を担当させ、山陰道、山陽道、南海道の15ヶ国20諸侯に夫役を命じました。
総奉行である池田輝政は当然のことであるが康重が外様大名の中に混じって工事に参加していることは注目すべきことで篠山の築城がいかに大がかりな天下普請であったかを物語っています。
工事は慶長14年(1609)3月に始まり「総勢8万人」と古記録にあるように莫大な労力と財力を投入して突貫工事を行ない、その秋にはほぼ普請が終わり、起工から9ヶ月後の慶長14年12月 康重が初代城主として八上城から入城してきました。
その後一年余り建物などの作事が続き、城下町の建設には完成までに40年余を費やし、ここに中世以来の八上城は廃城となり、篠山に丹波最大の城郭とその城下町が出現しました。
石垣

○なぜ天守閣がないのか?
 天守の用材は準備されていましたが、時の執政 本多正信から「天守は人目に立って敵方のねらいとなるので無用である」との指示によって築かなかった。
本丸跡

○大書院
  将軍巡行の直城にならい、二条城の書院をまねて造ったといわれ、城中最大の建物で間取りは聚楽第の大広間や仙台城の広間と同じ三列の平面で表の軒に唐破風(からはふ)をかけた中門が突き出し壮麗な意匠であった。

  なぜ壮大すぎる大書院を造ったか?

  おそらく胸中には大坂の豊臣氏を戦わずに臣属させ、辺境の地に存続させる意図があり、その候補地の一つが篠山であったのではないかと…。

○廃城後の城
  初代城主 松平(松井)康重以来 松平(藤井)氏2代、松平(形原)氏5代、青山氏6代を経て明治維新を迎え、廃藩廃城となり廃城当時の石高は6万石でありました。
  明治6年 城郭取り払いの命令に従って建物のほとんどが取り払われ、大書院は百円で落札しながら取り壊しに多額の経費を要するため保存することになり、学校や公会堂に利用していたが昭和19年1月、失火のために焼失しました。
 大書院は、2000年4月に復元されました。
大書院

城郭研究上、価値ある遺跡として昭和31年国の史跡に指定されました。
篠山城鳥瞰図

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八上城落城悲話

 今回は八上城落城の悲話をご紹介します。
波多野秀治、秀尚兄弟が安土で死んだ後も八上城では義弟二階堂秀香ら多くの将兵がなお籠城を続けました。明智光秀の母を処刑した時から生きて城を出ることは考えず、食糧不足の中、城主兄弟の死から2ヶ月後本丸に火を放ってことごとく自刃しました。時に天正7年(1579)8月2日のことでした。(他説は、天正7年(1579)8月9日)

 地元にはこの時の落城にまつわる女たちの悲劇が伝承されています。
 落城寸前、明智勢の囲みをくぐり抜けて落ちのびる女、子どもがいました。西への畷道を波多野秀治の末っ子の甚蔵を抱え、乳母の里へ逃げる集団でした。城から3km来た、現在の篠山市野中という辺りで腰元のひとりは燃え上がる城を仰ぎ見て「長らくお仕えした城主様は既に黄泉の人。今さら生きていても甲斐がないこと」と懐剣を抜き、胸を突いて果ててしまいます。この腰元の塚が女畷といわれ、今に哀れを伝えます。
(道筋に乙女塚として残っています)

   西方より八上城

           女畷の碑

    乙女塚

 なお、この時乳母に抱かれて逃げのびた秀治の子、甚蔵は、一時は僧になりますが後に還俗し、篠山藩主松平山城守忠国の代官になりました。
 また、秀治には三人の娘がいました。16才になる三女朝路姫はとても美しい姫であったそうです。彼女は、父の死の悲しみから城と運命を共にすることを願って城外に出ることを拒み、いつも身の回りの世話をしてくれていた小島老女と共に池に身を投げ、命を落とします。それからこの池は朝路池といわれるようになりました。

    朝路池跡

《伝説》
 ・「ひとり行きて水鏡に 自分の姿を写し、
             それが美女に見える人は、その人年内に死す」
 ・落城の時、金銀財宝を隠し捨てた場所

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